度一切苦厄 以無所得 考


法隆寺貝葉本(一番古い サンスクリット般若心経)と対比して玄奘訳(異論もあるが通説に従い玄奘訳とする)のみに
ある語句がある。 度一切苦厄 以無所得  遠離一切顛倒の一切   これについて書きます。参考

まずは、岩波文庫の般若心経 註より

度一切苦厄 p20 註八 ----法隆寺貝葉本はじめ現存のすべての梵本にはこれに対応する部分がない。シュタインが
敦煌の石室から発見した「唐梵飜対字音般若波羅蜜多心経」にも対応部分がない。しかし、玄奘の高弟茲恩大師基
の「心経幽賛」にも、円測の「心経賛」にもこの句があげられ註釈が加えられているから、玄奘の訳文に最初から
<a name="大正蔵経版">この句があったと見るべきである。訳出に当たって玄奘が本文にないものを挿入したのであろう。「一切の苦悩や
災厄をとり除く」の意。


以無所得 p31 註三一 ----法隆寺梵本には対応する原文がないが、東寺勧智院の澄仁本や敦煌出土唐梵飜対梵本
にはapraptitvenaと原文が入っている。通常この語は前の文章にかけて読むが、後の文章に附けて読むという説も
ある。敦煌本などには、(tasmad apraptitvena ・ この故に得ということはないから)云々とあり、明らかに後の
文章に附けている。しかし、この語は法隆寺梵本に従って、無い方が分り易い。


一切 p33 註三四 ----一般に用いられる読誦用「心経」には「遠離一切顛倒夢想」となっているが、縮冊蔵経、
卍蔵経、大正蔵経の原文には「一切」という字がなく、またサンスクリット原文には「一切」という訳語に当たる
sarvaという原語は入っていない。


一切 に付いては註三四 通りで、読誦用ということで、玄奘の訳文には無いとする。一切だけが無いのを大正蔵経版とする。


度一切苦厄は, 玄奘が本文にないものを挿入した で間違い無いでしょう、本論は玄奘挿入説の立場で行きます。


以無所得、法隆寺梵本に従って、無い方が分り易い。、、、あちゃ、頼りにする岩波文庫の 註が
無い方が分り易いとは、中村元 紀野一義 両先生は梵本からの邦訳が目的ですので、選択できますが、
当方は、玄奘の訳文をメインとしていますので、無い方が分り易いだけで済ませません。

梵本に「以無所得」が あるのと 無いのと 2種類あるのをどう解釈するか、

始めからあって後で取り除いた。
始めになくて、後で付け加えた。

「以無所得」の語句は前後の語句に対して違和感が強い、無い方が分り易いと言うほど
文脈から外れている、それを考えると、始めからあったと考えるとおかしい。
何らかの意図があって付け加えたと考えた方が良さそうだ、

法隆寺梵本バージョン を初版とする

東寺勧智院の澄仁本 を改定版とする


何故、「以無所得」が付け加えられたか、それは「以無所得」より前の文章 般若心経前段が
難解だからです。

難解ということ----例えば 無  眼耳鼻舌身意 読めないかと言うと、そんなことはない、アメリカ人や
フランス人が読めないと言うなら分かります、日本人なら中学生でも読める。なら読めても意味が
分からないか、いや、そんなことも無い、眼や耳やや鼻や舌などが無いと書いているのは、分かる。
分かるからこそ、眼が無い。ということに同意できないし、反発する。アレルギー反応を起こします。

それに比べると 中段以降 まずは見て下さい   参考

菩提薩垂 究竟涅槃 三世諸仏 能除一切苦 真実不虚 無有恐怖 遠離顛倒夢想

分かり易く何より、肯定的な内容です
心 無罫礙なども説明されると分かります。阿耨多羅三藐三菩提も 無上正等正覚 このうえないさとり
と説明を受けるとわかります、もっともインド側では(外国語ではない意味で)始めから分かっていたのでしょう。

それに対し前段は 眼が無い や、無苦集滅道無智亦無得、 お釈迦さまの悟りへの道も無く、悟りそのものもない。
内容が全て否定的である。
相当の説明を受けても分からない、常識で分からないだけでなく、高い教養があっても分からない。

法隆寺梵本バージョンのへ質問、疑問、抗議の声が経典作者の側にも届いたと考えられる。
説明できると良いのだが、元々般若心経前段は言葉での説明は不可能です。

それで付け加えられたのが「以無所得」です。経典作者の但し書きです。
般若心経前段が難しい人は、前段部は「以無所得」つまり単に得るところ無いと解釈しといて下さい。
読み替えて下さって結構ですと。  分かるような、分からないような、但し書きです。

玄奘は改定版でも不満だったのでしょう、読み始めると 分からない部分に突入してしまう、
後から、「以無所得」ぐらいの但し書きでは、アレルギー反応を押さえられない。

それなら始めの所で、易しく肯定的な言葉で難解な部分を読み替えた方が良い。能徐一切苦のように。

つまり、般若心経の最も難解な部分を分かり易いフレーズ 「度一切苦厄」で置き換えた。

「度一切苦厄」 最も難解な部分 「以無所得」 に置き換え難解さを封じ込める

難解な部分を分かり易い語句に置き換え 難解さを封じ込める

難解な部分をブラックボックスまたは半ブラックボックス化することで
難解さを、"何かよく分からないが、何やら有り難いもの"に変化させている。



玄奘の狙いは当たったのか、
その後の般若心経が玄奘訳が圧倒的であり、千年を超えた後の
日本においてさえ続く、永遠のベストセラーになったのは、「度一切苦厄」のワンフレーズの追加
にあると,思います。他の漢訳も内容に大差ないし、「度一切苦厄」が違うくらいだから。

民衆(大衆)は煩瑣な教学を嫌う。本来、難解な般若心経を民衆に受けるようにした
玄奘の功績は大きいと思います。


度一切苦厄 以無所得 論と言うのが無いので、私の仮説、試論で有ります。
最も合理的にと推論しましたが、反証を聞くにやぶさかでは、有りません、

梵本に「以無所得」が あるのと 無いのと 2種類あるのをどう解釈するか
度一切苦厄 の挿入について私なりの、思考実験です。

 お急ぎの方はパスして下さい  難解な個所に挑む





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